かなた「究極の温故知新」~原始を知り、現状を変える知識を~
どうもかなたです。
歴史の教科書は史料の発見などで当然記述が変わります。
4年ぶりに新しくなった2021年度版の歴史の教科書では、最古の人類はアウストラロピテクスからサヘラントロプス・チャデンシスに記述が変わっています。
子供のころアウストラロピテクスアウストラロピテクス・・・と何回も唱えて覚えたのも過去のものとなりました。
現行の教科書ではアウストラロピテクスという言葉自体が見当たりません。
そして人類が出現したとされる時期も大幅に前倒しとなっており、すべての教科書が最も古くて約700万年前と記述されています。
今回は原始を知り、人類の行動原理を知ることで現在に活かそうという回になります。
原始時代を知って何が今に活かせるんだと思われるかもしれませんが、何も役に立たない知識などありません。
役に立つ立たないというのは自分次第なんです。
「事実から何かを導き出し、利益を得る」それが学ぶことの意味だと思います。
「温故知新」は「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」
過去から学べる事は無限にあります。
ちなみに温故知新や孔子、釈迦等から学び悩みを解決する「先人に学べ」という記事も書いておりますので興味があればご覧ください。
※今回は史実のみならずかなたの想像部分も多く含まれます、ただの読み物としてご覧ください。
もくじ
原始時代とは
そもそも原始時代の人類はどのような生活を営んでいたのでしょうか。
これは考古学の権威によって様々なことが判明しています。
狩猟時代
貝塚(廃棄物を集めていた場所・遺跡)等を調べることにより山で動物を狩り、海で魚を捕り、野生の本の実、草の根など植物性の食物を食べて生活をしていたとされています。
生きることに直結するのは何よりも「食」です。
栄養をとらなければ生物は生きていけません。
生物の意義は生きる事、種を存続することにあります。
日々食べ物を獲得することが第一とされていたと容易に想像できます。
現代では金銭と引き換えに簡単に食を獲得することができます。
だから金銭を得ること(仕事)に重きを置く人が多いのです。
仕事もせず金銭も得ずにすべての人に食が滞りなく分配されるようなシステムを作るとたちまち多くの人は堕落することでしょう。
生命を維持するのに何もする必要がないですからね。
ただそんなシステムは今も昔も存在しません。
「働かざる者食うべからず」という言葉があるように何もしないで食を行う人は疎まれます。
赤ちゃん等は別ですが。
狩猟が食材確保のメインであると、しばらく資源を回収すると近隣に食料がなくなっていきます。
食料があるスポットを点々としていたのか、あるいはコミュニティの規模が小さかったのかは分かりませんが大規模な貝塚もあるので、ある程度のコミュニティを形成していたことが分かります。
何人、何十人、はたまた何百人が協力し合い食料を確保していたのでしょう。
この時代の働かざる者はコミュニティの死に直結します。
当然ながら間引きは行われていたのではないかと思いますが比較的縄文時代の暴力による死亡は少なかったとされています。(縄文時代には、暴力による死亡率は1.8%と極めて低かったと、「戦争は人間の本能である」という国際的な主張の再考する山口大学と岡山大学の研究グループが発表しました)
農耕時代
かなたのおぼろげな記憶の学校授業では、どこからか不意に弥生人が現れ水田稲作が始まります。
実際どのようなタイミングでの接触かは定かではありません。
一般に日本列島には縄文人が過ごしていて、その後大陸に来たいわゆる弥生人に淘汰され、弥生文化が始まったとされていますが弥生遺跡に縄文人の形跡があったり、縄文人と弥生人の特徴を併せ持つものが発見されたり、淘汰というよりは共存していたのではないかと思います。
事実は分かりませんが縄文人も弥生人もどちらが何だというわけでなく、共に今の私たちのルーツになっているのではないかと思います。
話は戻って、農耕時代には弥生人と稲作が加わったからなのか、元からの気質なのか、はたまた食料確保以外に費やす時間が増えたからなのか・・・人同士の争いが始まり、激化します。
食料の確保方法が、狩猟から稲作をメインとすることで水田に供給する「水」、不作時の食料確保等争いが起きる要因が増えます。
どういうことかというと、水が自分の田に平等に入らないと不満が生まれますし、たくさん作りたいと思うと自分の田に水をたくさん引き込みたくなります。
実は現代でも田んぼの水による争いってあるところにはあるんですよ。
そういったことが起こると田による収穫量の差が生まれ、不作時の食料備蓄量が家庭や集落ごとに異なります。
ただし、不作時でも「食べること」をやめるなんてできませんからある所から奪うという発想が生まれてきますよね。
みんながみんなそうというわけではないでしょうけど。
ただその時代に、現代でいう法の裁きを受ける事はありませんし、倫理観も当然違います。
生命存続のために他を重んじることは基本的にないでしょう。
狩猟時代から生き残るために動物を狩ってきていましたしね。
その相手がヒトになることも当然あるでしょう。
その原因は水や食料とは限りません。
少し身体がぶつかっただけかもしれませんし、痴話かもしれませんし、ほんの些細な事かもしれません。
それくらい弥生時代は殺傷人骨(道具により人間に対して行われた殺傷・加害行為により生じたもの:藤原哲)が多く出土されています。
以前神戸市にある新方遺跡では合計13体の人骨が発見されました。
そのうち石鏃(せきぞく:石で作った矢じり、矢先)が刺さった状態で発見されたのが1~3号、12号、13号の計5体あります。特に3号は17個の石鏃が腕や胴部を中心とした上半身に刺さった状態で発見されました。
17か所も刺されると考えるとよほどの極悪人なのか、やった側が極悪人なのか複数人なのか、実際は分かりませんが発見された確率を考えると5/13、約4割が他からの暴力を起因とした死に直面しています。
昔の人は寿命が短いと言われており、それは一般的に劣悪な衛生面や医療技術の有無によるものと考えられていますが、原始に焦点を向けると死因のトップは他殺によるものだという説があります。
そんな環境を生き延びた祖先が私たちの今を作っているのです。
事件に巻き込まれず、食料を確保し生きながらえてきたヒトから始まり進化を経て今のホモサピエンスが誕生しているんですね。
そういった私たちのDNAにはその太古からの記憶が保存されています。
生存本能が引き起こす事象
ではDNAの記憶から私たちに強く根付いているものは何かと考えると一番にくるのが生存本能です。
本能と言いますが、結局長い間培ってきた遺伝子の記憶からの行動だと考えられます。
縄文、弥生、奈良、平安・・・と続く人々の生活は現代の社会とは比べ物にならないくらい危険が溢れていたことでしょう。
作業に集中していたら後ろから猛獣に襲われる、刺される、なんてこともあったかもしれません。
集中時間
人間が集中できる時間は15分、45分、90分と言われています。
もっと集中してやれたら、と思う事もあるかもしれません。
人によって違いがありますし、この基本時間を大幅に超えて長時間の集中が可能な人もいれば、5分も集中できない人もいますよね。
この何かに全力で集中できないのは周りが見えなくなるほど集中している状態は危険という記憶があるからです。
これを突き破る心理状態が「フロー」状態だと考えられます。
フローは最高に集中できて結果を出せる状態ですね。
スポーツでは「ゾーン」ということもあります。
周りの景色がゆっくりになって何をどうしたら勝てるか分かるとかそんな状態です。
ちなみにフローについて詳しく書いた記事もありますので良ければご覧ください↓
話がそれましたが生命維持のため集中力が長時間続かないようになってるんですね。
よくマルチタスクといって複数の作業を同時に進行できる人が評価されますよね。
ただ、効率的には同時進行ではなく一つ一つ片付けていく方が集中でき、内容も混同することがないので絶対に早いし内容も良くなるはずです。
ただし生存本能から一つに集中することがを禁じられているのでこういった現象が起きるのではないかと思います。
そして脳には「脳内報酬系」という神経系があり、そこから脳に快楽を与える物質(ドーパミン等)が分泌されることで「集中しないという本能」をさらに手助けします。
一つに集中しないで何個も同時に作業するとなんとなく「仕事やってる感」や「できる人感」が生まれませんか?
それは脳にドーパミンという報酬が与えられているからなんですね。
そして得も言われぬ達成感、心地よさなどを手に入れます。
なぜマルチタスクで快楽を得られるのかというと一つのことに集中しないことで結果生命を維持、危険から回避しているからなんです。
だから脳、遺伝子レベルで褒められるんですね。
ご先祖様から褒められてる感じですよね(笑)
それは無意識ではやめられません。
噂話
「噂をすれば影がさす」「人の噂も七十五日」「人の口に戸は立てられぬ」など昔から人々は噂話が大好きですよね。
特に女性は良く喋る人やそういった情報通が多いですよね(かなたの勝手なイメージかもしれませんが)
ではこれも生存本能と関連すると考えるとどうでしょうか。
なぜ噂話を知りたいと思うのか、しようと思うのかと考えると噂話が死に直結するものだったからと考えられます。
「あいつ獲物取れないのに肉たくさん食べすぎだろ」とか「あそこの田んぼは他のところより多く水を引いているらしいぞ」とか「あの人族長の座を狙ってるらしいよ」なんて噂をばらまかれたらどうでしょう。
「争いの時代」ではすぐに刺されかねません。
法整備のされた現代であれ悪い噂をばらまかれると社会的、コミュニティ内での死を味わうことができますよね。
噂話を好むのは単に好きだからという事でもないと考えられます。
時代は移り変わり今や「井戸端会議」はネット上で不特定多数と行えるようになっています。
SNSの登場ですよね。
スマホ依存やSNS依存という言葉が生まれるほど多くの人々がのめり込んでいます。
一般的に承認欲求を満たせるからと言われていますよね。
ただ承認欲求はマズローの欲求段階説(←ここで説明すると長くなるので詳しくはウィキのリンク貼っておきます)で言うと4段目、社会的欲求の上になりますよね。
段階が正しいとすると社会的欲求が満たされている人がSNSにのめり込んでいるってことですかね。
かなた的にはしっくりきません。
では「こんなきれいなとこに行っている僕(私)すごいでしょ(こんな情報を発信できるんだからこの世の中に必要なんだよ、殺したらだめだよ)」という生存する価値を伝えるものだと考えたらどうでしょう。
こうすると2段階目の安全欲求に降格します。
SNSに依存する人は若年層が多く、社会的欲求が満たされているのかと考えると疑問が残りますが、安全欲求を満たすための噂話や発信であれば腑に落ちます(かなたは)
体験談だったか経験談だったか忘れたのですが、銃弾が絶え間なく飛び交う戦場のど真ん中に食料を置いて近くに極度の空腹(飢餓?)状態の人がいると銃弾に当たる危険性も省みず食料へと一目散に向かうと聞いたことがあります。
銃弾には当たるか当たらないか分かりませんが、食べないと死ぬことは分かっているので
「食べないと死ぬ>銃弾に当たって死ぬかもしれない」となるんでしょうね。
つまり1段階目の生理的欲求は他の何の欲求にも勝るということです。
この話を聞いてからかなたは安直かもしれませんが、欲求段階を飛ばして上の欲求を目指すことはないのではないかと思うようになりました。
このように依存に関しても紐解いていくと原始が要因になっているものが多くあると考えられます。
真偽は分からないんですけどね(笑)
ギャンブル
ギャンブルであっても同様に考えられます。
いつも食糧が取れるところに行っていてはすぐにそこの食糧を取りつくしてしまいます。
じゃあ今日は食糧が何も取れないかもしれない(リスク)けど違う場所に行ってみようと、新たな食糧や場所(リターン)を探しに行こうとなります。
つまりは時間を賭けて新たな食糧や場所を得るギャンブルですよね。
この賭けに勝つと新しい食糧が手に入り、コミュニティでは持て囃され脳内報酬は凄まじいことになります。
だからギャンブルをすることが「正」になるんですね。
昔のギャンブラーがいなければ今私たちは存在していないかもしれないんですからね。
ギャンブルに限らず、脳内報酬って結果が伴わなくても得られるらしいです。
だからやるだけ、考えるだけでも脳内報酬が得られますし、いくら負けてもやめられないという状況に陥るんですね・・・。
おわりに
長々と自論空論を書き連ねましたがいかがでしたでしょうか。
結局何が現状を変える知識なのかと思われた方もいると思います。
なぜそうなるかを知ることでそれを打破する方法も考えられるようになります。
例えば集中が15分しか続かないと悩む人がいたならどうすればいいか、長時間集中できないのは遺伝子レベルの話だから15分でいいと考えられるようになりますし、15分ごとに違うことをしてマルチタスカーになればいいんです。
すると悩みがなくなるし脳内報酬がもらえて気分もいい、となり得ます。
そもそも脳内報酬を調整して得たいものを得ることに脳内報酬が出るように調整すれば何でもできるようになりますよね。
原理を知れば方法を知ることができます。
こじつけでも嘘でも自分が納得できる原理を探して方法を編み出していきましょう。
これからも時間に余裕があるときには何かに、誰かに役立つ知識を投稿していきたいなと思っております。
足りないことやミス等もあるとは思いますがお付き合いいただければ幸甚です。
そういった場合はトップページのお問合せからご連絡頂ければ極力対応いたします。
苦情でも、要望でも、何でも送ってみてください(笑)
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