先人に学べ!!悩みは全て先人が解決してくれた 釈迦編
前回は孔子編を書きました。
未だ見てない方は孔子編から見てもらえるとスムーズかと思います。
今回は釈迦編ということで早速始めていきます。
例のごとく長くなると思いますがお付き合いください。
もくじ
釈迦ってどんな人?
釈迦について、皆さんも名前自体は聞いたことがあると思います。
お釈迦様とか聞いたことありますよね?
すごく簡単に言うと仏教の開祖です。
でもどんな人かは仏教に深く携われている方以外はあまりご存じないかと思いますので軽く説明していきます。
釈迦ことガウタマ・シッダールタは、シャーキャ族王・シュッドーダナの男子として現在のネパールのルンビニで誕生したと言われています。
つまり王子ですね。(初めて知ったときはえ、そもそも人間だったんだ・・・って思いました。神様みたいな存在かと思ってました)
産まれてすぐに七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して天上天下唯我独尊と言ったと伝えられています。
ことごとく理想的な相が備わっていたと言われ、このすばらしい王子の誕生に国中が歓喜します。
しかし生後7日目にして母親と死に別れます。
その後はおばの手で何不自由なく育てられ、教養や武芸、芸術などさまざまな方面で非凡の才を示しました。
王子であり、贅沢な暮らし、非凡の才、そして国一番の美人を妃として迎えます。
それを持たない人にとってはただただ羨ましいだけの存在ですが、王子には王子の悩みがありました。
そして悩みに悩んでついには城を飛び出しそれに立ち向かうため修行に励みます。
この王子が何に悩んでいたか・・・
それが「老、病、死」だと言われています。
この3つは誰にでも訪れるもので、だれもが悩むものですが、いつもこれを心配している人はめったにいないでしょう。
実際に自分がそれに直面するときまで深くは考えないのではないでしょうか。
かなた自身、最近老いを感じており、どうにか立ち向かうべく四苦八苦してます。
王子は全ての人を幸せにするにはどうすればいいかをひたすらに考え修行し、その末に悟りを開き釈迦と呼ばれる存在になったと言われています。
釈迦とはシャーキャ族から来ているといわれています。
自分の恵まれた境遇に甘んじず自ら苦行に励む姿勢は心をうたれます。
私は宗教なんてまったく興味もありませんでしたし(今も特別何かを信仰しているわけではないですが)、むしろ宗教にいいイメージはありませんでした。
しかし知っていくほどに、まず釈迦が人間であることがわかり、普通の人と同じようなことで悩むこともわかり、だんだんと惹かれていきました。
今回はそんな釈迦の教えを中心に好きな事を書いていきます。
四苦八苦
前回王子の悩みを「老、病、死」とあげました。
これに生も加わる説もあります。
「生、老、病、死」これらをあわせて四苦と言われます。
この四苦にさらに四苦「愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)」をあわせて八苦と呼ばれます。
つまり日常用語として用いられる(先ほどもこっそり使いました)四苦八苦はもともと仏教用語なのです。
生、老、病、死の四苦はお分かりになられると思いますが、あとの四苦を簡単にご説明したいと思います。
- 愛別離苦・・・愛する者との別れる苦しみ
- 怨憎会苦・・・恨み憎んでいる者に会う苦しみ
- 求不得苦・・・求めるものが得られない、求めても満足できない苦しみ
- 五蘊盛苦・・・人間でいうと五感、心、肉体が物事にこだわりをつくる苦しみ
これはいつの時代にも誰にでもある苦しみ(悩み)ではないでしょうか。
愛別離苦なんかはドラマであれ、映画であれ、音楽であれ、いたるところに別れの苦しみをテーマにしたものが溢れています。
釈迦はこの苦しみをまっすぐに見つめ、そこから苦しみを滅するための道筋として八正道を示しました。
八正道とは聖者の道であるから八聖道とも書きますが内容は同じで、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定のことです。
聞きなれない言葉が続きますが、説明しますと
正見(しょうけん)・・・無常を知り、ひとりよがりではない見解、正しくありのままを見ること。この正見は他の七種によって実現されるもの。
正思惟(しょうしゆい)・・・正見の目指すところを正しく決めること。つまり正しい判断を下すこと、自分本位な考えをしないこと。
正語(しょうご)・・・嘘、悪口、無駄、仲違いさせる言葉を使わないこと。これは孔子編に出てきた「巧言令色鮮し仁」と同じようなことです。
正業(しょうごう)・・・殺し、盗み、けじめのない性行為をしないこと。つまり正しい行いをすること。
正命(しょうみょう)・・・衣食住を適正に行いきちんとした生活をすること。
正精進(しょうしょうじん)・・・不断の向上心。過去の不善を絶つ。未来に不善を行わない。過去の善を伸ばす。新しい善を生じさせる。
正念(しょうねん)・・・無常を知り、今の内外の状況や苦とは何か正しく判断する。悪い考えを離れ全てのものの本性や姿をありのままに思い心に刻みつけること。
正定(しょうじょう)・・・正しい集中力。精神を一定に統一すること基本的にこの八正道を常時実行していれば悩むことはなく涅槃(苦しみのない世界)にいけると言われています。
さらに人から尊敬される人であってもこの八つをできてない人は尊敬に値しないと言われています。
ごくごく簡単にいうと物事をありのままに見て、悪いことはせずけじめある生活をしなさいということですね。
一切ぶれずにこれができる人は仏陀(悟りを開いたもの)になれるでしょう。
「八正道」、気には留めておいて、できるときは実行しましょう。
釈迦の言われた正しい道ですから確実に血肉となり、あなたを助けるでしょう。
しかし無理をする必要はありません。
何といっても無理というものは身体に悪いものですから・・・。
中道
本章からは比較的読みやすいものになると思いますのでご容赦を
昔のインドでは家族を捨てて出家し修行するということが日常茶飯事でした。
王子(釈迦)が訪れたラーマという山のふもとは修行僧がたくさんいる有名な場所でした。
そこには仙人が住んでいて大勢の弟子が苦行にはげんでいました。
苦行とはさまざまで火にあぶられながら耐えるもの、水につかっているもの、手を上げ続けているもの、ひたすらに五体を苦しめる修行をしています。
これは五体を苦しめ、心を磨く。
この苦しみを乗り越えられるものは天国へ転生できると言われています。
これは現代でも行われている地域もあります。
釈迦は「楽の為に苦を行うということが苦しみの解決には至らないのではないか」と思ったといわれています。
そして翌朝その場所を去り南に向かいました。
それからの釈迦の修行というものも極めて辛いものだったと言われています。
食べるものもろくに食べず、着るものはぼろぼろの布1枚、1年もしないうちに目も当てられないほどやせ衰えたと言われています。
しかし決意は少しもゆるがないどころかもっと強く激しいものになったそうです。
そして悟りを開き仏陀となり、その教えを説いてまわりました。
仏陀の教え、これがつまるところの仏教になります。
自分は凄まじく辛い修行を重ねた釈迦ですが仏教にて中道というものを説いています。
これについては私の好きな話がありますのでそれをご紹介させて頂きます。
釈迦の弟子に並々ならぬ修行をする人がいました。
その度が過ぎた熱心さを心配したのかどうかわかりませんがやさしく語りさとしたと言われています。
この熱心すぎる弟子は琴を最も得意とする人でありました。
「琴の美しい音を出すには、弦を強く張りすぎても弱く張りすぎてもいけない、修行もこれと同じことで度が過ぎると苦しむ、しかし足りないとだらしなくなる。そして成果も上がらないものだよ。だからどちらにもかたよらないようにした方がいい。」
これを見たとき私はハッとしました。
すごく納得しましたしすごく良い言葉だなと思いました。
そして恥ずかしながら琴をギターに換えてすぐに人に伝えてしまいました。
もちろん釈迦の教えということも伝えましたが。
これは孔子編の「曾子の三省」に反していますね。
よく知りもしないまま人に伝えてしまっています。皆さんも気をつけてください。
つまり中道とは快楽主義、苦行主義、政治で言えば右や左のような極端な考えに偏らずに生きることを意味するのではないかと思います。
しかしどちらも実は必要なもので、有りすぎず、無さすぎず、中間を往くということになります。
無理せず楽をしすぎず生きていきましょう。
女性
さて話はがらりと変えて釈迦の女性観をお話しさせていただきましょう。
釈迦は夫が妻に対して守るべき五箇条として次のように説いています。
- 妻に対して礼儀正しくすること
- 妻を侮ってはいけない
- 浮気をしてはいけない
- 権威を与えること
- 装飾品を与えること
これを見ると釈迦は相当のフェミニストだったんですかね?
そして、現代に当てはめてもなんら遜色ないということが分かります。
まず①の礼儀正しくすること。
これは人として当然のように思います。
いくら長年寄り添った間柄といえども「親しき仲にも礼儀あり」と言います。
ここをおろそかにすると仲違いの原因にもなりえます。
次に②の侮ってはいけない、ですがまさにその通りです。
ここで孔子編の前書きにてご紹介させていただいた三法印の諸行無常、諸法無我を思い出してみましょう。
諸行無常はあらゆるものは移り変わる、変化し続けるということ
諸法無我はあらゆるものは実体がない、自分のものではない、本質ではない
ということでした。女性(人)の心とはまさに諸行無常であり諸法無我であります。
大恋愛をして結婚したとしても結婚生活は・・・なんてことはよく耳にします。
自分の心も相手の心も常はないわけですからばれないだろうと妻を侮って③の浮気などをしてしまうとたちまち自分の首をしめてしまいます。
女性の観察力、洞察力はすばらしく鋭敏です。
④の権威を与えることはどうでしょうか。
女性に限らず人は誰しも自分が生きることに価値を求めます。
つまり誰かに必要とされたり、感謝されたり、認めてもらったりすることで自分の価値を見出すのです。
これはアメリカの心理学者アブラハム・マズローが考案した欲求5段階説(自己実現理論と呼ばれることもあります)にも通ずることがありますよね。
権威というと厳かに思いますが簡単なことです。
「いつもおいしいご飯をありがとう」だとか「○○がきれいに掃除をしてくれるから気分よくすごせるよ」だとかその一言でかなりの効果を発揮します。
しかし、本当に自分が思っていることでないと効果は半減以下です。
本当に感謝の気持ちがあるからこそ意味があるのです。
心からの言葉というのは時間がかかったとしても必ず相手の心に届きます。
それと同様に嘘もいずれは相手に伝わるのです。
これを肝に銘じておいていただけると助かります(あなた自身が)
最後の⑤装飾品を与える、これはすばらしい教えだと思います。
①~④などは結局誰もが辿り着くであろうことですが、この境地に辿り着くところがさすがお釈迦様と言えましょう。
女性はいくつになっても見た目に気を使いますし、美しくありたいと思っているものです。
美しくなりたくないと思っている女性はほぼ100%いないでしょう。
好みは当然あるでしょうが一般的に装飾品をもらって嬉しくない人はいないのではないでしょうか。
慣れ親しんだ夫婦であれ、たまにはネックレスや指輪をプレゼントしてみてはいかがでしょうか。
いつも一緒にいるパートナーですから仲が良い方が当然幸せですよね。
この①~⑤を念頭に日ごろの行動に気を使ってみてください。
しかし真理の道において女性は天敵と考えられています。
釈迦にさえ情欲に没頭することもありました。
しかし誰にでも何にでも諸行無常は当てはまります。
どんなに美しい女性にしても年老いてしまい、やがては死んでしまいます。
恋や愛というものは一時の気の迷いと言われるように一つの煩悩でしかないのです。
「たとえ恐ろしい毒蛇の口に男根を入れても女性の陰部には入れてはならない。燃え盛る炎の中に男根を入れたとしても女性の陰部には決して入れてはならない」
と言うくらいですから女性とは心を惑わし真理への妨げになる存在なのでしょう。
そんな考えを持ちながら五箇条を掲げることがまた面白く感じられますね。
食事
孔子は食事や生活の仕方にとても気を使っていました。
釈迦も食事や生活について説いています。
この二人は直接関わりがないにもかかわらず教えには共通することがたくさんあります。
余談ですが、ヒンドゥー教では神であるヴィシュヌの化身が釈迦やイエス・キリストであるという説があったり、仏教は神を信仰しないのですが逆に神が仏教徒であったり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは世界最古の宗教と呼ばれるゾロアスター教から影響を受けていると言われていたり・・・
歴史や宗教をたどると点が線に変わることがたくさんあります。
それが不思議なところでもあり、面白いところでもあると思います。
最早本当に神という存在があるのではないかと思ってきます。
↑世界1200都市を訪れ、1万冊以上の本を読破した稀代の読書家として知られる出口治明(立命館アジア太平洋大学)学長の本です。
哲学や宗教について読み解かれています。
では釈迦の食事についての言葉を見ていきましょう。
「汝等比丘(なんだちびく)、諸々の飲食(おんじき)を受けては、まさに薬を服するが如くすべし。良きにおいても、悪しきにおいても、増減の生ずることなかれ。趣(わずか)に身を支うることを得て以って飢渇を除け。蜂の華をとるに、ただその味わいのみを取って、色香を損せざるが如し。比丘もまたしかなり。人の供養を受けて趣に自ら悩を除け。」
比丘というのは修行者のことです。
汝等はあなたたちといった意味合いになります。
したがってこれは修行者に向けて話した言葉になります。
では簡単に訳していきますと、
「さまざまな飲み物、食べ物を供養で受ける時に薬を飲む時のようでないといけない。
好き嫌いによって多く食べたり、少なく食べたりするようなことであってはいけない。
わずかに身体を支える分だけ頂いて、飢えや渇きをしのぎなさい。
蜂が花から蜜をとるときに蜜の味わいだけを取って花の色や香りを損なわないように修行者もまたそうするべきです。
人の供養を受けてもただ飢えや渇きを除くにとどめましょう。」
となります。
誰でも好きなものや美味しいものはたくさん食べたいし、嫌いなもの、不味いものはできるだけ食べたくないと思います。
ですが釈迦は好き嫌いや美味しい、不味いによって多く食べたり、少なく食べたりせず、薬を飲む時のようにいただきなさいと言っています。
この薬を飲む時のようにというのはなにも不味いものでもありがたく食べろというわけではありません。
インドや中国には昔から医食同源という思想があり食事の取り方に注意して体質の改善し、病気を治療していくことに繋がることから薬を飲むときのようにと言っているのではないかと思われます。
そのことと薬を飲むように適量だけ、という意味合いも含んでいるかもしれません。
本意はわかりませんが僧侶を目指しているわけではありませんので解釈は自由だと思います。
自分のいいように受け止めていただければと思います。
食事は一回の食事であれたくさんの命を生きるためにいただきます。
無駄に多く食べたり、残したりすることが無いように気をつけたいですね。
最後に伊達政宗五常訓に食事の仕方に関連したものがありますので紹介します。
朝夕の食事はうまからずとも誉めて食うべし。元来客の身になれば好き嫌いは申されまい。
いただきます、ごちそうさま
日本では多くの人が食事の際に手を合わせて「いただきます」と「ごちそうさま」と言いますよね。この言葉はよくできていると思います。
食事を作ってくれた人、その食事のために犠牲になったたくさんの命に感謝していただきますと言います。
頂いた後には感謝してごちそうさまと言いますね。
しかし近年では手を合わせるのは特定の宗教行為であるからといった理由もあり、幼稚園や小学校などでいただきますやごちそうさまを言わないといった教育をされているところもあるそうです。
そこでは笛などを鳴らしてそれを合図に食べ始めるそうです。(なんというか個人的には動物にするようなことのような印象を受けます)
私が幼少の頃には当たり前のように当番の人の声に従って、「手を合わせて、いただきます」と言っていたものですから驚きました。
思い返してみるとたしかに宗教のように思えますね。
しかし何か寂しいものがあります。
そうやって育った私は今でも食事の際には「いただきます」と「ごちそうさま」と言っています。
もう少し時がたてば若い人たちにこの人は何の宗教人だろうと思われる日がくるのかもしれませんね。
毎日新聞の万能川柳という読者が川柳を書いて応募し、選出されれば掲載されるといったコーナーがあるのですが私はそのコーナーが好きでやむを得ない理由があるとき以外は毎日楽しみながら読んでいます。
投稿をしたことはありませんが・・・
そこに私の心に響いたものがありましたので紹介させて頂きます。
投稿者は柏原のミミさんという方です。
「たくさんの 命重ねる ハンバーガー」
私はこれを見てすごく深いなあと思いました。
普段誰もが気軽に食べているハンバーガーですが、そこにはたくさんの命が重ねられているのです。
たしかに宗教的な問題はあると思いますがいただきますという言葉は大事なのではないのでしょうか。
投稿者さんの意図はわかりませんが私はこれを読んでものすごく感動しましたので紹介させていただきます。
お酒
食事に続きましてお酒の話をさせていただこうと思います。
お酒は百薬の長と呼ばれ適量ならば身体に良く総死亡率も程よく飲む人は飲まない人と比べても低くなります。
そしてお酒は心の臙脂にもなり、感情や知性に色をつけてくれることもあります。
さらに憂さ晴らしにもなるといった素晴らしい飲み物ですが、これらは全て適量を飲んだ場合であって度を越せばそうはいきません。
仏教に五戒というものがありその中の一つに「不飲酒戒=酒を飲んではいけない」がありますがこれは解釈の仕方であり、適量ならば身体にもいいし酩酊しないなら飲んでもいいと捉える考え方もあります。
実際お坊さんって酒飲みが多いイメージが・・・(笑)
ただ三度の飯よりお酒が好きな人に酒を飲むなと言うのは酷ですからね。
しかしお酒もいいことばかりではありません。
インドの諺にこのようなものがあります。
「象からは7歩、牛からは10歩、女からは20歩、酔っ払いからは30歩離れていろ」
お酒を飲むと気が大きくなり他人に迷惑をかけたり、悪いことをしたりする人がいます。
そういった人からは言葉の通じない象や牛、色々な誘惑よりも10歩余計に離れろというのですから相当ですよね。
酩酊状態の人はたいてい他の人を巻き込み、騒々しいものです。
こういった風になることがあるから不飲酒戒があるのかもしれません。
皆さんもお酒を飲む時はほどほどにお願いします。
お酒関連でもう一つジャマイカの言葉を紹介します。
「真の友を知りたいのなら道端に横たわって酔ったふりをせよ」
これはなるほどと思いました。
酔っ払いの世話というのはかなり体力を使いますし面倒なものです。
相手を思う気持ちがなければできないことではないでしょうか。
酔ったふりをして相手が放っていくか、はたまた最後まで世話してくれるのか・・・
それで真の友を見極められるでしょう。
実行することがいいことかはわかりませんが・・・。
心の水
これが最後の章となります。
釈迦は心を器に入った水に例えて話をしました。
「ここに器に入れた水があるとしましょう。
もしこの水が濁っていれば自分の顔を映してみてもありのままは見られません。
それと同じで私たちの心が色々な欲で濁っている時は何を映してもありのままに映るはずもありません。
もしもその水が沸騰していたらどうでしょう。
そこに顔を映そうとしてもどうにもならないでしょう。
それと同じで心が瞋恚(しんい)=怒りの心に燃えているときには何事もありのままに見られないのです。
ではこの水が沸騰もせず苔や草にも覆われず澄んでいたらどうでしょう。
そのときにはいつでもそこに自分の顔を映してありのままに見ることができます。
それと同じく心もまた貪欲、瞋恚、愚痴に災いされていないときには万事をありのままに正しく見ることができるのです。」
心がいつも澄んでいれば物事をありのままに見ることができますし、悩みとは無縁になることでしょう。
しかし私たち人間はちょっとしたことで悩んだり腹をたてたりするものです。
そしてその尺度は人によって違いますね。
ちょっとしたことをいつまでもくよくよ悩む人もいれば、怒ったところを見たことがないといった人もいます。
水は条件や器によって様々な形を作ります。
時に渇きを潤し癒しを与え、はたまた津波などの災害を起こすこともあります。
事あるごとに自分の心を器に入った水とイメージし、今がどんな状態かを見つめなおすといいかもしれません。
ちなみに今現在、私の心の水は軽く揺れています。
それが何かと言うと、納期がせまっている仕事が終わってない不安があるからです(笑)
心の水がどんな状態かイメージし、それを澄んだ水にするように心がけて行動すればだんだん悩みはなくなっていくことでしょう。
人によって差があるのは考え方の差、すなわち能力の差があるからなのです。
全ては自分の考え方次第だと何度も言ってきました。
荘子外篇にこんな話があります。
「舟で川を渡っているときに、空の舟がやってきて自分の舟に接触したとしましょう。
どんなに怒りっぽい人でも、相手が空の舟であれば腹を立てることはないでしょう。
しかし一人でも舟に人が乗っていたらどうでしょうか。
誰であれあちらへ向けろ、こちらへ向けろと声を張り上げるものでしょう。
一度呼びかけても、二度呼びかけても届かない、そこで三度目となると、必ず怒号の言葉が飛んできます。
空舟の場合では腹を立てなかったのに、今度は怒る、というのは空舟の場合で「虚」だったものが、今度は人が乗っていて「実」だったからです。
もしも人が一生を「虚」にして無心の境地を過ごすなら、誰もそれを害する事はできないものです。」
ここはあえて解説などはしませんので皆さんの自由な解釈で捉えていただきたいと思います。
瞋恚(怒りの心)は仏教において恐ろしいものだと考えられています。
「瞋心は猛火よりも甚だし。常に当(まさ)に防護して、入ることを得せしむること勿るべし。功徳を劫(かす)むるの賊は瞋恚に過ぎたるは無し。」
怒りの心は猛々しく燃える炎よりも恐ろしい。
常に怒りの心から心を護って怒りの心が生じないようにしなければならない。
功徳(善行に対する報い)を盗む盗賊は、怒りの心より勝るものはない。
と言われるほどです。
瞋恚を遠ざけることが心を澄んだ水にしておく近道になるのではないでしょうか。
皆さんの心の水が澄んだものになることを心から祈っております。
終わりに
はじめに、色々な言葉をご紹介致しましたが全て私的な解釈で書かせて頂いております事をお許しください。
中には本当はこうだ、この解釈が正しい、といったことがあるとは思いますが、広い心で、瞋恚を抜きに、ただの読み物として見て頂けるとありがたく存じます。
前回と今回、孔子と釈迦を中心に構成し、時折他の先人たちの言葉を踏まえながら執筆しました。
しかし孔子、釈迦共に私の好きな言葉やこれは大事だ、と思った言葉しか伝えられておりませんので両者の魅力を全く伝えきれておりません。
最初に述べた通り、ここから先人に興味を持って頂き、そこからは個々に知識を深めて頂ければと思っています。
論語一つにしてもいい言葉は星の数ほどありますし、まして先人というと数えることは不可能と言っても過言ではありません。
その中にはあなたの悩みに直結するものもあるかもしれませんし、これはすごくいい言葉だというものが見つかることでしょう。
それらが現代にはインターネット上や書籍という形で知ることができます。
正しい情報を精査する必要はありますが、たった一冊の本であっても膨大な知識が詰まっているものです。
↑読んだことはないですが面白そうだと思ったので載せときます。
温故知新を心がけ自らをレベルアップしていきましょう。
最後はあえてソクラテスの言葉で締めくくりたいと思います(笑)
「人間は誰でもいつかは死ぬ。だから我々が常に考えなければならないのは、死をまぬがれようとすることではなく、生きられるだけの時間をどうしたら最も良く生きられるかということだ。大切なのは単に生きることではなく、より良く生きることなのだ。」
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私的な全然役立たない情報もあります(笑)