先人に学べ!!悩みは全て先人が解決してくれた 孔子編
もくじ
はじめに
突然ですがみなさんは論語をご存知でしょうか。
恐らく国語や古典の授業で耳にしたことがある人は多いと思います。
ただ、「全然覚えてないなー」とか「そもそも授業聞いてなかった」という人もいらっしゃるでしょう。
そんなかなたも記憶喪失なのか全然覚えてませんでした(笑)
論語とは孔子とその弟子たちの言行録のことです。
実はこの論語や孔子を知らないとしても論語の教えや言葉は私たちの何気ない生活の中にも関わってくることが
多々あります。
例えば野球の故意に四球を与えることを「敬遠」というのは大半の人が知っていると思います。
実はこの敬遠という言葉は論語、すなわち孔子の言葉が元となっているのです。
論語の一節、「鬼神を敬して之を遠ざく」から来ています。
この言葉は鬼神(神仏や霊など)に対して粗末にはせず敬いはするが、これに頼ることはせず自分(人間)の努力が必要だといった意味になります。
この敬遠を知らない方はだから何だ、自分の生活には関わっていないと思われたかもしれませんが、「遠慮」はどうでしょうか。
「遠慮しておきます」「遠慮しなくてもいいよ」「ご遠慮ください」
さまざまな場面で聞かれたこともあれば自分で言った事もあるのではないのでしょうか。
現在においての「遠慮」の意味は控えめにするときに使われたり、謝絶される、する場合に使われたりしています。
これも出典は論語なのです。
「人、遠慮なければ必ず近憂あり」
こちらは漢字を1字ずつ読み解いていくとお分かりになられると思いますが、
人間というものは遠い未来を見据えて考えておかないと近いうちに躓いたり、いやな目にあったりするといった意味ととれます。
もともと遠慮は遠い未来や将来を思うといった意味だったのです。
この「敬遠」「遠慮」共に論語から生まれた言葉だということはお分かり頂けたのではないかと思います。
こういった風に故人からの教え、言葉、歴史を読み取り現代に活用する、これが温故知新というものだと私は考えています。
「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」
さらにこれに続く文章が
「もって師たるべし」
これは昔を懐かしがるための言葉などではなく、物事には結果があり、その結果というものは何事も原因がある。
その原因を歴史的にみることによって現在に活かし、さらには将来も予測する、すると初めて人の師
となることができるのです。
ここでは単に言葉の例を出しましたが先人たちの言葉、教え、はたまた行動を学んでいくことで悩みを解決したり緩和したりするための智慧を身についていくと私は考えています。
「そんなことできるの」と思うかもしれませんが現在西暦2021年ですよね。
人類の歴史は西暦以前から始まっています。
その間に一体何人の人が生まれ、亡くなったのでしょうか。
その中にもしかしたら自分と同じ悩みを抱えた人がいたとは思いませんか?
簡単に言ってしまうと、先人の中の誰かから解決方法を教えてもらおうということです。
少し哲学的な事を言ったり、宗教的な事も言ったりもしますが興味があればお読みください。
いつものように長文になりますが(笑)
ひとつの書籍のようなイメージで読んでもらえると良いかもしれません。
ちなみにかなたは悩みはほとんどありません。こういうと「あほ」みたいに聞こえますね(笑)
先ほど「智慧」という言葉を使いました。
この智慧という言葉は般若心経(仏教)において重要視されている言葉になります。
知恵と何が違うのか・・・
知恵とは分別知、つまり物事の良し悪しを決め、価値の判断を決めるものになります。
これがあるからこそ人は悩み苦しむのです。
例えばあの車が欲しい、あの車でないとだめだ。でもお金がないから買えない・・・。
といった悩みがあるとします。ではこの悩める人は何故「あの車」がこんなにも欲しいのでしょうか。
それは今までの経験、知識から、つまり知恵から独自に判断してこんなにも「あの車」に依存してしまったのです。
この知恵があることで世の中には他にもたくさんの車があり、買える物があるのに「あの車」しか見えなくなっているのです。
では智慧とは何なのでしょうか。(以下分かりにくいので本編に進んでも良いです)
智慧とは分別知の知恵と相反して無分別知と言われています。
これは真理の法に目覚めること、簡単に言うとありのままのモノをありのままに見ると言うことです。
そうしている、と思われる方もいると思いますがそれは本当に目に映っているものがありのままの姿なのでしょうか。
そう言われても訳がわからないと思います。
実際私もこれを聞いた時は何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
ここで智慧を身につけるために必要な仏教のお話をします。(宗教の勧誘等ではないですよー)
まず根本原理となる三法印をご紹介致します。
諸行無常・・・あらゆるものは移り変わる、変化し続けるということ
諸法無我・・・あらゆるものは実体がない、自分のものではない、本質ではないということ
涅槃寂静・・・とらわれのない心の安らぎこそ真の幸福だということ
仏教の始者釈迦は29歳で釈迦国の太子の地位を捨て6年の厳しい修行ののちに35歳で悟りを開いたと言われています。
それから45年もの間その悟りの教えを説いて巡り80歳で没したと言われています。
釈迦の別れを惜しんで集まった人達への最後の説法が以後になります。
「生まれたものは必ず死ぬ、誰しもが諸行無常の道理にさからうことはできない。それゆえ諸法無我の道理をさとって欲を少なくしなければならない。そこに涅槃寂静に入るさとりがある」
と最後の説教にも三法印を説かれたのです。
欲があるからこそ人は悩む、悩むから辛くなるのです。
しかしその悩みは自分だけが持つものでしょうか。
共通の悩みを持つ人もいるかもしれませんし先ほども言ったように先人にも同じ悩みを持った人がいるのではないでしょうか。
一人で悩むのは辛いことです。その悩みを共有してくれる人、解決した人の言葉を聴けたらその悩みは軽減したり解決したりするのではないでしょうか。
実際私も悩みを多く抱え、相談する人も身近におらず途方に暮れていた時期がありました。
その時に出逢ったのが論語です。論語に出逢い釈迦に出逢い、さまざまな先人の教えに出逢いました。
するとたちまちというわけではありませんが悩みは軽減されていき、解決するもの、悩むほどのことでもなかったと気づくものへと姿を変えていき、私の生活は以前よりよほど楽になりました。
本書では孔子(論語)、釈迦の言葉や教えを中心に構成します。
何故かと言うと単に私が好きだからです。
さらに後付けで理由をつけるならば孔子と釈迦がほぼ同時代の人であることもあります。
解釈の仕方はさまざまありますが私の好きな解釈を使いお伝えしたいと思いますのでそこはご了承頂ければ幸いです。
前書きの時点で長くなりましたがこんな感じで行きます。
孔子と弟子に学べ!
孔子ってどんな人?
今回は論語を中心に学んでいこうと思います。
前述したとおり論語は孔子とその弟子たちの対話によって作成されています。
孔子自らが論語を書いたという訳ではなく孔子の死後、弟子たちや関係者が聞いた孔子の言葉、孔子の人となり、弟子たちの言葉を集めて一冊の本にしたものが論語なのです。
現在世界三大聖人と呼ばれているイエス・キリスト、釈迦、孔子のうちから釈迦、孔子を選んだ理由として、もうひとつ、「人間臭さがあるところ」です。
イエス・キリストは本当にすばらしい人物?です。
生まれながらにして神の子と言われるイエス様を真似るなど私には到底できないのでは・・・
と考え釈迦と孔子に意識が流れてしまったのです。
キリスト教、仏教と並び名前を連ねる孔子ですが、論語を読めば読むほどに孔子も普通の人間だと思い始め、やがてその人柄や教えに好意を抱きました。
できればタイムマシンに乗って実際に会って話を聞きたいくらいです。
さらにイエス・キリスト、釈迦と異なるところが宗教、神については触れていないのです。
敬遠の「鬼神を敬して之を遠ざく」でもわかるとおり神を敬いはするけど頼りはしないといっています。
オカルトやタブーなどが満ち溢れていた時代になんと合理的な考え方なのでしょうか。
やはり聖人と言われるだけのことはありますし、常軌を逸脱した人物であったことには違いないでしょう。
これだけ孔子を持ち上げてしまう私ですが尋常でない腹痛に襲われトイレにこもっている時には「神様ごめんなさい、もうしないから許してください」と意味もなく神様に謝っているものです。
余談?になりましたがそろそろ進めていきたいと思います。
まずは孔子の外見、暮らしぶりから見ていきましょう。
孔子という人物は身長190cmの大男だったという説があります。
真偽はわかりませんが。
旅を続け疲れていた孔子が弟子の子貢が町の人に聞いた話を紹介します。
子貢とは孔子より31歳若い弟子ですが論語にはたびたび名前を連ねています。
この子貢は弁舌にすぐれていました。
さらには商売のセンスが抜群だったと言われ、経済人の伝記を集めた史記の貨殖列伝にもその名を連ねています。
↑一応かなたが持っているものを貼っておきます。
しかしその溢れんばかりの才気ゆえに孔子にしぼられることもしばしばあります。
町の人「東門の側に立派な顔かたちの人がいた。疲れている姿はまるで野良犬みたいだった」
と子貢が聞き、これをこのまま孔子に伝えると
「顔かたちのことはともかく野良犬とはうまいことを言うものだ、まったく、まったくその通りだ」
と大笑いした。このことからも孔子の容姿は端正なものだったのではないかと思われます。
暮らしぶりはというと、論語に詳しく記録されていて本当にまじめだったことがわかります。
特に注目すべきは食生活です。
とにかく衛生面にいたっては今日の食品業者にも見習っていただきたいくらいの用心深さです。
「少しでもすえた飯やいたんだ肉は口にせず、色や匂いのおかしいもの、火の通ってい
ないもの、季節はずれのもの、さらには切り方がおかしいものも避けた」というから驚きです。
私の経験から悩みや不安は不健康であると倍増します。
孔子を真似ろというのは難しいと思いますが少し意識するだけでも健康へと導かれるのではないのでしょうか。
何事も身体が資本です。
健康にはできるだけ気を使い、大切にしていただけたら幸いです。
さてそんな孔子ですがごちそうを避けたのかと言われるとそうではありません。
ごちそうは喜んで食べましたし、質素を売りにはしていませんでした。
さらにお酒もたしなんでいたそうです。「乱に及ばず」と記されていることから酔うことはなかったようです。
私的解釈では孔子はお酒が強くいくら飲んでもへべれけになることはなかったのではないかと思っています。
現代でいうマナーの塊のような人物だったように思えます。
そして大事なのが「歌」です。
孔子は歌が大好きなのです。孔子は人と一緒にうたうのが好きで、歌のうまい人やいい歌に出会うともう一度歌ってもらい自分も歌ったというほどです。
私は孔子という人物が教科書に出てくるような難しいことばかり考えていたわけではなく自分の思うままに、自然に、理にたがわず生きているように思いました。
協和(現りそな)銀行頭首の色部義明さんは論語(孔子)についてこう話しています。(ニュアンスだけをお伝えします)
「孔子という人生の達人は決してこうるさい説教家ではなく、どこにでもいる頼りになるおじさんである。孔子は偉そうなことを高いところから教えているのではなくいろいろ個性をもっている弟子たちの間にまじって、素直に所信を述べている市井の先生にすぎない。それだけでなく孔子自身が、時には疑問を投げかける人ですらある。じっくり読んでみたらそこに出てくるものはすべてわれわれの日常茶飯のことでありわれわれの生活そのものである。たぶん読み出したら飽きることはないだろう。」
私はこれを見てまさに、という印象を受けました。
本書を読み、論語に興味を持ち、さらには熟読していただくとうれしい限りです。
人間関係を学ぶ
さて悩みとはいろいろなものがありますが大体は仕事や人間関係ではないでしょうか。
人間関係がうまくいく人は仕事もうまくいくそんなイメージはありませんか?
ということは人間関係さえよくなれば大体のことは片付いてしまいます。
孔子という人は何より人を大切にする人でした。
かなたの好きな話にこんなものがあります。
「厩(ウマヤ)焚(ヤ)けたり。子、朝より退きて曰く、人を傷(そこな)えるか」
(孔子の厩舎が焼けた。朝廷から戻ってきた孔子はそれを聞くとまず誰も怪我などしなかったかと言った)
当時の馬といえばものすごく貴重でした。
その厩舎が焼けたのに馬の心配などは一切せず人のことだけを心配したのです。
これを言われた人の立場になって考えてみましょう。
まず自分の不注意で厩舎が燃えてしまったとします。
大きな損失を生んでしまったかもしれません。
孔子が帰ってくるのを不安な気持ちで迎え、厩舎が燃えてしまったと伝えます。
すると孔子は馬や厩舎などには一切触れず「お前たちは大丈夫だったか、怪我はないか」と言われます。
あなたの過失によって起きた事故で損失が生まれたのにも関わらずあなたやほかの人の身を案じただけでその過失は一切問われませんでした。
どうですか。実際このような振舞いをされたらほっとしますしうれしいですよね。
惚れてまうやろーーってなりますよね(笑)
次からはこんなことは絶対に起こさない、本当に孔子に申し訳なかった、と思いませんか?
責任を不問にすることで自分が気をつけるようになり、自ら反省しませんか?
孔子がこれを狙って言ったと思いたくはありませんがこのような効果があったのでないかと私は感じました。
では仮に頭ごなしに怒鳴りつけられたらどう思うでしょうか。
確かに自分が悪かったけどそこまで言わなくても・・・となりませんか。
そこには不満や反抗が生まれます。
不満や反抗はマイナスでしかありません。
孔子の立場に会社の上司をおいたとしたら?
あなたは頭ごなしに叱られて果たしてその後の仕事に身が入るでしょうか?
身を案じられ責任を不問にされた場合と比べ上司への評価はどうなりますか?
自分が上司の立場だとしても同じことです。
確か大きな損失だったかもはしれませんし腹も立つでしょう。
だからといって頭ごなしに怒鳴りつけてもいいのでしょうか。
物やお金は大事なものです。
それと同様に、それ以上に人と人との繋がりが大事なのではないでしょうか。
人の口に戸はたてられません。部下は悪かったことは認めても不平、不満を誰かに言ってしまうでしょう。
そこからまた誰かに伝わり、また他の誰かに伝わり・・・しかも噂話というものはどんどん誇張されていくものです。
最終的にはあなたに影響を及ぼしてしまうかもしれません。
あくまで可能性ですから当然そうならないこともあります。
でも部下は確実にあなたへマイナス評価を重ねていくでしょう。
これをどう考えるかはあなた次第ですが、誰からも疎まれず誰からも好かれて生きていけるならばそれが1番幸せなことではないでしょうか。
孔子が弟子の子路や顔回と雑談していたときにふっと
「どんな人間になりたいか」
と尋ねたことがありました。子路がすかさず答えました。
子路とは孔子の9歳若く弟子の中でも最長老のひとりであります。
子路はもともと乱暴物で腕力自慢、雄鶏の羽根で作った帽子をかぶり、豚皮の袋を腰に下げるといった格好で町を闊歩して、孔子に暴力を振るったと史記の仲尼弟子列伝に書かれています。
↑一応かなたが持っているものを貼っておきます。
これを孔子は礼を設けようやく子路を誘(いざな)ったといいます。
これをうけ、子路は服装も改め孔子に弟子入りしました。
子路もたびたび論語に登場する欠かせない人物であります。
子路「自分の馬車だろうと衣服だろうと喜んで人に貸してやり、それが傷んで返ってきてもまったく気にしない、そんな人物でありたいです」
と言いました。これに顔回が続きます。
顔回も孔子の弟子で子路、子貢と同じく論語になくてはならない存在でしょう。
顔回は孔子より30歳年少で子貢とほぼ同じ年です。
口が上手く商売のセンスもあり孔子を知らない人からは孔子よりすばらしい人物だと勘違いされるほどの子貢が自分は顔回に劣ると言ったほどの人物であり、孔子が顔回はほぼ完全に近いとまで言った人物ですが29歳でしっかり白髪になり若死にしたと言われています。
その顔回は「善行をひけらかさず、苦労は自分で背負い込むような人物でありたいと思います」と言いました。
孔子は黙って聞いていましたが子路が我慢できずにこう言います。
「先生はどう思われますか」
その孔子の答えが
「老者には安ぜられ、朋友には信ぜられ、少者には懐かしまれん」
年長者には安心される、友人には信頼される、年少者にはなつかれる、そんな存在になりたいというのです。
つまり聖人と呼ばれる孔子の理想は・・・誰からも信頼され、好かれる人物だということです。これに近づくために孔子は生涯、忠恕を貫きました。
忠は真心、恕は思いやり。
孔子はこれを非常に重くみていました。
子貢に「一言で、人が生涯守るべき信条はありますか」とたずねられた際に孔子は「恕」と答えました。
この恕は聞いたことがおありの方も多いと思われますが「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」と同義で使われています。
これは自分がされて嫌なことは他人にもするなということです。恕の思いやりとは相手の立場にたって考えることです。
相手がこうされるとどう思うだろう、こう言われたらどう思うだろうと考えることが思いやりになるのです。
行動に移す前に少し相手の立場にたって考えてみるだけであなたの人間関係はぐんとよくなることでしょ
う。
例えばメールでも送る前に1度相手の立場で読んでみるといいかもしれません。
誤字、脱字は当然修正できますし相手を傷つけることも少なくなるのではないでしょうか。
メールのいいところは送る前なら修正できるということです。
あせらずゆっくり考えられるのですから恕を念頭に置いておけば失敗することも少なくなるでしょう。
ここでひとつ手紙についてのお話をさせていただきましょう。
ある人は命令をくだしたがいろいろと口実をもうけて拒否をした部下に対して憤り、怒りに身を任せ部下に向けて手紙をつらつらと書きました。
しかしあとはポストに入れるだけというところで思いとどまります。
ここで相手の立場にたってなぜこんなことをしたのか、相手がこれを受け取ったらどう思うか考えたのではないかと思われます。
そしてこの手紙は投函されることもなくある人の死後、書類の間から発見されるのです。
このある人というのがかの有名な第16代アメリカ合衆国大統領リンカーンです。
手紙やメールは送る前なら取り返しもつくものです。
それに反して対話には修正が聞かないこともしばしばあります。
しかし大切なのは忠、つまり真心です。
思いやりをもって行動したけれど言葉が下手で相手を傷つけてしまったということもあるかもしれません。
しかし、あなたが忠恕をもって相手に接したならば相手にはそれが必ず伝わるはずです。
もしそれが伝わらないのであればあなたの忠恕の概念が間違っているか、相手に忠恕がないのかもしれません。
心からの言葉は必ず現実になりますし、相手に伝わるものなのです。
口先だけの人間ほど信じられないものはありません。私が論語で好きな言葉のひとつに
「巧言令色、鮮(すくな)し仁」
があります。これは弁舌(口先)がうまくて見た目のいいものに仁のあるものはいないという言葉です。
上手い言葉や愛想のいい顔つきの人には大体真実味がなく信用できないということです。
孔子はこういった人(巧言令色)が好きではありませんでした。
もちろん言葉を軽んじているわけではありません。
孔子は言葉を大切にする人です。
では何がいけないのか、ここでいう巧言とは口先の言葉や、実体の伴わない言葉をさしています。
大事なのは上手い言い回しなどではなく心、行動なのです。
これを心がければ少しの失敗などは多めに見てもらえることでしょう。
失敗と書きましたが人は誰でも失敗、つまり過ちを犯します。
これは仕方のないことです。大事なのはこの過ちをどうするかということです。
過ちについて孔子はこう言っています。
「過ちてはすなわち改むるに憚ることなかれ」
過ちを犯したのなら、すぐさま改めること。さらにもうひとつ、
「過ちて改めざる、これを過ちという」
過ちを犯しても改めないこと、これを本当の過ちという。過ちはどんな名人にも有り得ることです。
弘法も筆の誤りといいます。
弘法とは弘法大師(空海)のことで平安時代の三筆に数えられるほどの筆の名人です。
この言葉は弘法が命令により書いた応という字の心の上の点を書き落としたことが由来になっております。
どんな名人にでも失敗はあるといった意味で使われていますがこの話には続きがあり、弘法は書き損じた額に筆を投げつけて見事な点を書いたと言われています。
これは流石といわずにはいられません。
名人は過ちを犯してもそれを認め、見事に改めたのです。
弘法のような名人にさえ過ちはあるのですから私たちに過ちはつきものです。
しかしこれを認め改めることでたとえ過ちを犯したとしてもプラスの方向に持っていくことができるのではないでしょうか。
過ちに逃げずに立ち向かうことは容易ではありませんが少しでも意識をむけることが大切に思います。
するといつか弘法のような見事な点を書ける日がくるでしょう。
名前
さて、ここで質問があります。
皆さんは人の名前を覚えることが得意ですか?不得意ですか?
人間は他人の名前にはいささか興味がないものです。
しかし自分の名前となると話は別です。例えば駅や学校、がやがやした集まりの中で他の部分は聞こえなかったが誰かの話の中に自分の名前だけは聞きとれた、という経験はないでしょうか。
人間は誰しも自分の名前を覚え、呼んでもらえるということに気分をよくするものです。
ファーストネーム(姓に対する名)であればさらに距離が縮まったと思うのです。
親しくなった異性が自分の事をファーストネームで呼んでくれるようになるとうれしいですよね。
逆にいつまで経ってもファミリーネーム(名に対する姓。苗字)では何だか距離感を感じます。
これは誰でもファーストネームで呼べということではなく名前の持つ力をお伝えしたまでです。
会社の社長をいきなりファーストネームで呼べば怪訝な顔をされるのは目に見えています。
↑スティーブ・ジョブズ氏のイメージ
しかしファーストネームを知らないのは問題になります。
社長に「私のフルネームはわかりますか」と聞かれたら・・・もし答えられなかったら間違いなくあなたの評価はがくっと下がるでしょう。
これは社長に限らず誰を相手にしても同じことになります。
仮にあなたが誰かに「私のフルネームはなんでしょう」とたずね、相手が答えられなかったらどう思いますか。
私は自分の名前を覚えてもらえてなかったことに落胆し、名前を覚えてもらえる人になれるように行動を改めようと思います。
ではどう覚えるのか。
人の記憶とはあいまいなもので、一度で永遠に記憶することは天才でもない限り難しいことだと思います。
忘れていくということは漢字をいっぱい覚えてもしばらく書かないと書けなくなっているのと同じことです。
漢字を何回も書いて覚えるようにその人の名前を何回も唱える、メモに書くなどをすればいいのです。
ここで孔子の弟子の曾子の言葉があります。
曾子とは孔子より46歳若い弟子で、子貢、子路、顔回などが先進組呼ばれるのに対し、曾子は後進組の代表格の一人になります。
曾子曰く
「われ日にわが身を三省す。人のために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝えしか。」
私は日に何度も反省する。
・人に頼られながらいいかげんなことをしなかったか。
・友人に対して誠実だったか。
・自分に確信がないこと、よく知りもしないことを吹聴しなかったか。
※何度も反省するではなく、三つのことを反省するという訳もあります。
つまり何度も何度も反省することで行動が改められ次第に自分の血肉となり身についていくのです。
先ほどの漢字でもそうですし、スポーツであっても練習なくして良いプレイはできないように、繰り返すことが大切になります。
名前を覚えることも、この繰り返しという当然のこと、しかし確実な方法を応用するだけでいいのです。
ではどうするか、ここはビジネスシーンで考えてみましょう。
ビジネスシーンでしたらまず名刺交換から入りますよね。
①まずは当然相手の名前を見ます。
ここで相手を見ずに相手の顔を思い出しながら名前を見ればさらに効果が上がります。
そしてもうひとつ、相手が太郎さんだとした場合に自分の知り合いの太郎さんをイメージするとより記憶に残りやすくなります。
②そして会話の中でできるだけ相手の名前を呼びます。
○○さんはどこにお住まいですか、○○さんはお子さんいらっしゃいますか、など会話は何でもいいので
相手の名前を唱えることが大切です。
ここで名前を呼びながら会話をすることで親近感が自他共に湧いてくるはずです。
それによって会話も盛り上がってくるでしょう。
相手の名前をいかに多く唱えるか、いかに相手の情報を聞き出すかが勝負になります。(誰とも勝負しているわけではないですが)
③話も終わりその方と別れましたら名刺かメモ帳にでも話した内容を書き留めておきましょう。
ここも相手の顔を思い出しながら書くと効果絶大です。
中にはもう二度と会わない人もいらっしゃいます。
しかし人との出逢いはかけがえのないものです。ここで終わってしまってはあまりにも寂しいです。
せっかく名前も覚えましたし・・・
④そこで年賀状や季節の手紙などを書いてみましょう。
昨今では季節の手紙を出す方もめっぽう減りました。
あなたの手紙はきっと相手の方に響くものになるでしょう。
ここで名刺やメモ帳に書いたことを活用します。
ジャイアンツが好きなら今年こそは必ず優勝だとか、子供がいれば子供の話題、とにかく話したことを絡めて文章を書くと受け取る方も思い出しますし読むのも楽しく読めるでしょう。
ここでも思いやりが大事です。相手の立場にたって文章を書きましょう。
もらって嬉しい手紙を書けば次に会うときはさらにいい話ができるのではないでしょうか。
そうすることで信頼が生まれ、ビジネスにも生かされるでしょうし、思わぬところで一生の友人ができることもあるかもしれません。
人との繋がりを大切にしましょう。
能力
能力とはなんでしょうか。
能力とは一定の課題、物事を遂行、実行する力です。
これが高ければ高いほど問題を解決する力は高いと思われます。
さらに正当に評価されるのであればこれがある人は生活に困ることもないでしょう。
さて、当然ですが人によって能力には差があります。
野球が上手い人、勉強ができる人、仕事ができる人・・・
色々ありますがある程度のところまでは努力すればできるものです。
小さな頃から勉強が嫌いだった私でも本気で勉強することで国家資格を取ることができました。
同じ人間なのですから誰かにできることは自分にだってできるのではないでしょうか。
ここで大切なのは何なのでしょうか。
ここでひとつ孔子の言葉を紹介します。
「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。」
しかずは及ばないと言った意味ですから、対象を知る人はそれを好む人には及ばない。
対象を好む人はこれを楽しむ人には及ばないといった意味になります。
つまり楽しみながらできる人が1番だということですね。
好きこそものの上手なれとは言ったものです。
プロのスポーツ選手にしてもスポーツを楽しんでいない人はいないのではないでしょうか。
好きだからこそ、楽しいからこそもっと上を目指す意欲が湧いてくるのではないでしょうか。
どうであっても楽しんでやれることは幸せですよね。
ゲーテも「自分の今行っていること、行ったことを心から楽しめる者は幸福である」と言っています。
楽しむまでいかないにしても自分の心の持ちようで解決してしまうことも多々あるのではないでしょうか。
例えば命令されて100メートルを走るのはたった100メートルでも長く苦痛に感じますよね。
しかし自分から今日は走るぞ、と思って走れば100メートルなどゆうに超えて走ってしまいます。
同じ100メートルでも自分の気持ち次第で感じ方が変わります。
これは楽しい時間がはやく過ぎ去り、いやな時間が長く感じるということと同じです。
ようは考え方の違いなのです。
ある程度までは努力や勉強が必要かもしれません。
しかしそこからさらに上に行く人にはやってやるぞという気持ちやそれを楽しむ気持ちがあるのです。
能力の差というものは考え方の差なのではないでしょうか。
仕事が楽しくない、いやでいやで仕方なければやめればいいのです。
そして自分が楽しみを見出せる仕事を探す、もしくはそれをきっかけに自らが開業する手もあります。
誰にでも可能性は満ち溢れています。
それを実行するかどうかは全て自分次第です。
それができない人はなぜできないのか、その理由は自分が勝手につくっているのではないでしょうか。
よく知り合いにかなたはすごいとか羨ましいとか言われるんですが
そこでかなたは純粋に「○○もこうしたらいいじゃん」というのですが、
大抵は「どうせ○○だし」、「失敗したら怖いし」などやらないことを正当化するための言葉が返ってきます。
冷たく感じるかもしれませんが、羨ましいなら失敗してもいいからやってみればいいのに、と思います。
かなたは失敗しまくってます(笑)
一度きりの人生、誰にでも確実に終わりがやってきます。
ならば精一杯楽しみたくありませんか。
そう思うと迷ったり、悩んでる暇なんてありませんよね。
時間は限られているのですから1分でも1秒でも多く楽しみましょう。
全ては自分の考え方次第なのです。
知るということ
まずこの言葉を読んで頂きたいと思います。
「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなせ。これ知るなり」
ぱっと見ると訳が分かりませんよね(笑)
これは平たく言いますと、知るということは、知っていることは知っている、知らないことは知らないということといった意味になります。
つまりは知ったかぶりをしないで知らないものは知らないと言おうということですね。
知ったかぶりをしても何もいいことはありません。実際は知らないのですから知ったかぶりをするとそれについては知らないままになってしまいます。
知らないことは知らないと言って正しい知識を身につけた方が自分の為になります。
さらに知らないから教えてくださいと言われた相手は気分が良いものです。
きっと得意になって教えてくれるでしょう。
相手が年下や目下であれば聞きにくいかもしれませんが「下問を恥じず」という言葉があります。
これは孔子が名門貴族の孔圉(こうぎょ)を褒めた際の言葉です。
下問を恥じずというのは後輩や目下のものに教わることを恥としなかったということです。
わたしたちは情報に満ち溢れた現代社会に生きていますが、当然知らないことの方が多いのです。
小学生が知っていて自分が知らないことも当然あります。
私は知っていて損をすることなんてこの世の中にはないと思います。
ですから誰の話でもどんなに面白くない話でもできるだけ真剣に聞くことを心がけています。
その知識が役立つかはわかりませんが・・・。
一瞬のひらめきよりもとにかくコツコツと知識や経験をつんでいくことが大切なのです。
しかしそれが後々身を結ぶこともあります。
孔子もいわゆるコツコツ型でした。
「われは一もってこれを貫く」
「多くを聞きてそのよきものを択(えら)びてこれに従う」
上は子貢との会話の際の一説です。
孔子が子貢に「子貢は私が何でも知っている人間だと思うかな」と聞くと「もちろんです。違うのですか」と言った後の言葉です。
私は何でも知っているのではなく一つのことをコツコツやってきただけだよ、といった意味になります。
下は色々な意見を聞いてその中から良いものを択ぶ、こうして私は知識を身につけたと言っています。
これは温故知新につながっていく言葉なのではないでしょうか。
孔子は「古を好み、敏にしてもってこれを求むるものなり」と言っています。
これは先人の教えや業績を慕いそれをたゆまず努力しているということです。
実は本書「先人に学べ!!」の題をつける際に参考にさせてもらった言葉なのです。
孔子も先人から良く学び、下問を恥じず聖人と呼ばれる人になったのでしょう。
ならばこれを真似しない手はありません。
誰でもすぐにできることですがこれだけのことで人生が大きく変わることでしょう。
不平不満
よく自分はもっと認められるべきだとか、なぜ自分がこんなところにいなくてはいけないのか、自分はもっと上にいけるはずなのに、と悩む人がいます。
そんな人に向けた孔子の言葉があります。
「人のおのれを知らざるを患(うれ)えず、おのれの能なき患う」
これは人が自分を認めてくれないことで悩むな、自分の能力のなさを悩めという教えです。
なかなか厳しいお言葉ですが確かにその通りなのではないでしょうか。
自分に他人が認めるような能力を本当に持っていれば人は嫌でも評価してくれるものです。
自分が満足いく場所にいないのなら努力しろということですね。
例えばお金持ちになりたいと言う人はたくさんいますよね。
しかし大半はただなりたいと言うだけではないでしょうか。それでは当然なれるはずもありません。
お金持ちになるための能力を持ってないのですから・・・
本当になりたいと思う人はそのために勉強をしますし行動を起こすでしょう。
それをしない人は口でいうだけで現状に多少の不満はあるにしても我慢できないことはなく、真にお金持ちになりたいとは思っていないのではないかと思います。
前章でも言いました通り全ては自分の考え方次第ですから思考は現実になります。
ナポレオン・ヒル著の「思考は現実化する」とまったく同じ言い回しになりますが。。。
↑本書も一度は読むべき本であると思います。
このブログにたどり着く人はとっくに読んでいるかもしれませんね
話はそれましたが幸せになるのも不幸になるのも全ては自分次第です。
月収15万円で満足と言う人もいれば不満と言う人もいることの理由を考えましょう。
人によって幸せの基準が違います。
自分が幸せだと思える生き方をして人生を楽しみましょう。
最後にもう一つご紹介させて頂きます。
「位なきを患えずして、立つゆえんを患えよ。おのれが知らるなきを患えずして知らるべきことを為さんを求めよ」
これは自分が出世できないことを悩まないで自分の役割をしっかり考えること。
自分が認められないことを悩むより他人が認めざるを得ない仕事をすることをしようとなります。
なかなか難しいことですが意識にあるだけで不平不満の数は減るでしょう。
出逢い
茶道に一期一会(いちごいちえ)という言葉があります。
意味はみなさんご存知の通り「いつでも一度きりだと思って人に接しなさい」といった意味になります。
実は一期一会は千利休の茶道の筆頭の心得なのです。
茶道では
「こうしてあなたと出会っている時間は、たった一度きりのものです。この一瞬を大切にし、今出来る最高のおもてなしをしましょう」
となります。この考えを井伊直弼が自分の茶道の一番の心得とし、世の中に広まったと言われています。
茶道のおもてなしの心というものは素晴らしいものです。
たとえば夏は部屋涼しく、冬は暖かくは当然でお客様にとにかく心地よい空間を思いつく限りの丁寧さで提供します。
茶道の心得がある方はご存知だとは思いますがここで利休七則というものをご紹介致しましょう。
「利休七則」
①茶は服のよきように点て
②炭は湯の沸くように置き
③花は野にあるように
④夏は涼しく冬は暖かに
⑤刻限は早めに
⑥降らずとも雨の用意
⑦相客に心せよ
「茶は服のよきように点て、炭は湯の沸くように置き、花は野にあるように、夏は涼しく冬は暖かに、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」
私はこれを読むだけでなんだか心が晴れるような気がします。
意味はおよそ文章のままですが加えて私の解釈をあげていこうと思います。
①心を込めておいしく飲みやすいお茶を点てましょう。
上手下手ではなく飲む人にとって調度いい加減で心を込もったお茶を点てることが大切です。
②茶の湯では炭手前という作法がありますが作法の通りにやれば湯がよく沸くとは限りません。
よく沸くというのはただ早く沸騰させろということではなく、頃合よく調度よい加減の湯が沸くようにということです。
どうすれば湯がよく沸くか考え、準備を怠らず本質を見極めることが大切です。
③茶室に生ける花は無理に枝を曲げたり形を整えたりしないで自然のままに生けましょう。
その花が咲いていた状態を感じさせる姿に生けるのであって、単に咲いていた状態を再現するのではなく花の美しさや命の尊さを表現することが大切です。
④これは言葉のとおりです。
しかし冷房や暖房のない時代のことですから色々な工夫をします。
夏であれば打ち水をしたり風鈴を置いてみたり、直接温度は変わらないにしても涼しさを感じてもらえるように演出します。
その他にも夏は口が広くて熱を逃がしやすい平茶碗、冬にはその逆、といったように道具にも気をつけます。
⑤時間を守るということは当然です。
それだけでなく何事もはやめに考えて余裕を持ちましょう。
そうすれば相手の貴重な時間も大切にできます。
⑥雨が降ってから傘を用意するのではなくあらかじめ傘を準備しておくということですが、これは雨だけの話というわけではありません。
あらゆる場合を想定し前もって準備しておくことで心に余裕が生まれ何事もスムーズに進みます。
⑦同席したお客様に気を配りましょう。
初めて会う人も慣れ親しんだ人もいるかもしれませんが縁があり同席したのですから一緒に楽しいひとときを過ごしましょう。
どうでしょうか。利休七則・・・この心遣いが心地よい空間を提供するのですね。
これをさりげなく実行する茶人、かっこよくもあり美しいとは思います。
ただ客人に手土産を持たせることがおもてなしと言えるのでしょうか。
それで相手はまた来ようと思ってくれるでしょうか。
そうではなく過ごした時間が心地よければまた来たいと思ってくれますよね。
そうすればあなたにとっても相手にとってもいい出逢いであったと言えるのではないでしょうか。
人との出逢いはかけがえのないものです。
人は一人で生きていくことなんてできないのです。
誰かに助けられ、支えられ、誰かを助け、支え、生きているのです。
周りにいる人たち、これから知り合う人を大切にしていきたいですね。
孔子の章の最後に孔子が出ないのも寂しいので孔子の言葉をお伝えします。
「ともに言うべくしてこれと言わざれば人を失う」
これは共に語り合う人物と会っておきながら語り合わないのはせっかくの出逢い、友人をうしなってしまう、ということです。
孔子も人との出逢いを大切にしました。
そうでないと論語は完成しなかったでしょう。
論語は孔子や弟子たち、はたまた一度しか登場しない村人などのエキストラたちとの会話によって成り立っていますし、孔子の死後、弟子たちが聞いた言葉や弟子の言葉などをまとめて作られたものですから孔子が他人との関係をおざなりにする人であれば完成することはなかったでしょう。
論語には本書に出てこない言葉たちがたくさんあります。
本書では論語の魅力を1/10。。。1/100も伝え切れていません。
本書で少しでも興味を持ち論語を読んでいただけると幸甚。
↑論語の本っていっぱいあるんで最初は簡単そうなものからでも良いかもです。解釈も人によって違います。
次は釈迦の教えを主として進めていきたいと思います。
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